外国人の彼の国の動乱(テロなど)
外国人の彼の国で、クーデターやテロ等があったときは、どうすればいいか、日本からできること、できないことを説明します。
実際に私が遭遇した事件(ネパール王族殺害事件)の時のことです。
実際に私が遭遇した事件(ネパール王族殺害事件)の時のこと
2001年6月、彼の国に再訪問をする2日前、ネパールで事件が起きました。
ネパール王族殺害事件です。
(興味のある方は、下段に詳細を書いておきます)
穏やかだったネパールが、にわかにきな臭くなり、これから国がどうなるのか、誰も予測が出来ませんでした。
泣く泣く、旅行を取りやめ、彼に会いに行く手段がなくなりました。
彼は、ネパール人特有の諦めの良さ(?)で、私が来れなくなった事情は理解できるし、それはどうしようもないと思っているようでした。
この事件以降、ネパールがもとの穏やかな国に戻ることはなく、内戦の時代に突入していくことになります。
そうして、11か月が経ちました。
まだ、彼とのメールを続けていて、彼との思いを断ち切れない私に、友人がぼそっと言いました。
「あなたがネパールに行けないのなら、彼が日本に来て会えばいいんじゃないの?」
・・・・晴天の霹靂、でした。
そうか、その方法なら会うことができる!!
苦しさの先に、わずかな光を見つけた感じでした。
早速、ネパール人が日本に来る方法を、調べ始めました。
国の動乱(クーデターとかテロとか)があったとき、した方がいいこと
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- 動かない。
- 行かない。
- 心配しすぎない。
動乱時には、外国人ができることはありません。
安全な国で、安全を確保するのが一番です。
それでも今、あなたにできること
彼と会えない状況が続いていたとしても、それでもやっておいて欲しいことがあります。
- 電話やFacetimeでの直接の会話だけでなく、文字や画像でやり取りをする
無料のLINE電話やFacetimeなどを使い、彼とコミュニケーションを取っている方も多いと思いますが、それだけでは証拠として残らないです。
大切なやり取りについては、文字や画像情報で残すことが大切です。 - SNSなどでやり取りをした記録をきちんと残しておく
SNSは設定により、過去のデータが表示できなくなることがあります。これは非常に困るので、スクリーンショットなどの画像データにして、各自保存して下さい。その時に、何年何月何日のやり取りなのかが分かる形でお願いします。
なお、SNSでのコミュニケーションの仕方は、そのカップルにより全く違います。交際の実態を把握し、コミュニケーションの頻度や深さを立証するのに非常にいい資料として、入管はかなり重要視するようになっています。
離れていてもお互いを支えていく日々の努力や想いが、いつか実を結ぶようになるといいですね。
ネパール王族殺害事件についてここからは、専門的なことなので、ネパールに興味のある人だけで大丈夫です。 1990年、ビレンドラ国王は、それまでの専制君主制(国王が政治の実権を握る)から、立憲君主制に移行し、憲法を制定し、議会制度を導入しました。 それを面白く思わなかったのが、国王の弟、ギャネンドラとその息子。 2001年6月1日、ビレンドラ国王は、王族一族を集めて夕食会をしていました。 公式発表によると、この後、怒って酒に酔い酩酊した長男が、銃を乱射し、父(国王)母(王妃)兄弟2名、叔母2名、あと親戚3名が死亡、長男本人も、銃で自殺を図った。 これが、ネパール王族殺害事件です。 長男本人も、3日後に死亡。 ここで、疑惑が生じました。
ギャネンドラ国王即位後、民衆が首都カトマンズに集結し、即位の反対集会が開かれ、警察隊と衝突して死者が出ました。 ギャネンドラ国王は、即位して約半年後(11月)、非常事態宣言を発令し、自分のいうことを聞かない議会を停止し、それまで移行してきた民主化を潰していきます。 2002年から2006年、政治の混乱に乗じて、マオイスト(反政府ゲリラ組織)による内戦が激化。 2006年4月、大規模な民主化運動が勃発し、ギャネンドラ国王の特権が全てはく奪されます。 2008年、制憲議会選挙ののち、ネパールを共和制にすることが議決され、ギャネンドラ国王は退位。 ネパールは240年続いたネパール王国から、ネパール連邦民主共和国になりました。 2008年に制憲議会選挙があってから、実際に憲法が施行されたのが、7年後の2015年。 2018年現在、新憲法のもとで第一回目の選挙が行われ、オリ総理大臣(同姓なのです)が就任し、新たな民主主義国家として歩き始めました。 |